2023
2023年の受賞者が決定いたしました。
田上碧さん、平井亮太さん、篠田ゆきさん
詳細は追ってご報告致します。
選評
選ぶ/選ばない、わかる/わからない
北澤 潤(R.E.Award 選考人)
今回のアワードでの選考作業は、6時間以上に渡った。応募いただいた一人ひとりの資料について、もうひとりの選考人の寺田さん、また企画者の横内さんと大野さんと4人で、できる限りの議論をした上で最終的に3人の方を選ぶこととなった。それぞれの方の選考理由は後述するとして、この長時間の選考を通じて自分の頭のなかに常々浮かんでいたのは、アワードという形式のもつ構造についての思考であった。そもそも普段であれば、私は選ぶ側ではなく、選ばれる、もしくは選ばれない側にいることの方が多い。そのくらい今回のアワードは応募者の方々と選考する私たちの世代が近かった。いわゆるアワードが、一定の社会的地位とキャリアを持った審査員によって受賞者を選出するものだとすれば、そう遠くない世代とキャリアの作家同士が選ぶ・選ばれるという立場に分かれ行われたこの「アワード」は、もはやアワードではない...?そんな疑問を持ったことも、選考の中で言及させていただき、横内さんからは「アワードというかたちをきっかけにしたネットワーキング」という旨の発言があり、この企画の目指すものを確認した。選ぶ・選ばれるという力関係が必然となる既存のアワードという形式から、そのはたらきを解体し、つながりに転じようと試みるのだとしたら大いに共感できる。
とはいえ、実際にいま選ぶ側として立っている私は、何をもって選ぶ、もしくは選ばないのか。アワードの脱構築は良いとして、それは今後の展望であり現在選考中であることに変わりはない。そこで私が「選ぶ」ための頼りにしたのは、日本からインドネシアにきて活動してきた自分の時間とそこでの実感だった。このアワードで得られるものの一つである「インドネシアでの滞在制作と発表という機会」について言えば、私はその機会をつくるべく自分で現地に滞在(いまでは居住)し活動を続けてきた。そこでの経験という特殊なキャリアを足場にするのであれば、選ぶことができると思ったのだ。今思えば、すでにその地で滞在し活動している作家が、これからやってくる同じく作家をこのアワードを通して選ぶというのは、確かにネットワーキングと言えるのかもしれない。
前置きが長くなっているが、ひとつ言えるのは、インドネシアでの滞在制作において「いかに自分をひらけるか」は重要になるということだ。自身の行動の規範やコミュニケーションの手段といったこれまでの拠りどころを離れ、いかに現地に感覚をひらくことができるか。既知と未知の間でのアイデンティティの揺れを自覚し、その内省の時間と外の熱気を行き来しながら、新たなわたしの片鱗をみる。その過程は、あらゆる変化を受け入れようとする態度に対して訪れ、内なる変わらない何かを問い直すことになる。変わりうるのは作品の形態も然りであり、うまくいけば「こうでないといけない」はずだった作品はその価値観と一緒に崩れていく。こうした「ひらかれ」による変化をプロポーザルから予感しづらいもの、言い換えればどうなるかが「わかる」と感じてしまうもの。例えば作品の形が確固としていて、それを違う土地でつくりたい、に留まっているようにとれる提案は今回選べなかった。
今回の応募全体をみたときに、どうなるかが「わかる」ものと、どうなるか「わからない」ものの幅がかなり広いと感じた。「わかる」ということは想像できてしまう、もしくは変化の余地が感じ辛いと言える。ただそうしたなかでも、形がしっかりしているからこそ逆に言えば、変化を取り入れ、成果としてアウトプットできるだろうと思わせる提案もあった。一方、どうなるか「わからない」というのは、現地での変化にひらいていて、未知の可能性がある。ただ何が実際に立ち上がってくるのか、立ち上げようとしているのかについては、ノープランと言えるものもあった。「わかる」から選ばない、「わかる」から選ぶ、「わからない」から選ぶ、「わからない」から選ばない。そのどれもが成立してしまうなかで、「わかる/わからない」のバランスが非常にとれた提案だと感じたのが、田上碧さんと平井亮太さんのお二人だった。私と寺田さんがどちらも選んだこのお二人に関する議論のなかで、今回の二人の選考人の共通する観点がみえてきたのも興味深かった。それは、滞在する作家が現地で何かを得る一方向性に留まるレジデンスではなく、何かしらの滞在地との相互作用を想像させるプランだということ。寺田さんが言葉にしていて印象に残っている「そこに存在し得なかった共同体」が現れる可能性への期待は、今回の選考基準を言い表したキーワードとも言えるものだった。
田上碧さんについては、インドネシア滞在の経験もあり、そこでの関心を発展させた提案であった。しかし、一方的に自らのリサーチを深めるものではなく、言語やさらに解体された「声」や「音」といった普遍性から生まれる場が、日本とインドネシアといった固有性を越える可能性を感じさせられた。プロポーザルとしての明快さも含め、今回のアワードの一つの答えを応募者側から見せられたといった印象すら受けた。
平井亮太さんについては、陶芸という手法をもちながら、あらゆる場所でスペシフィックな展開をしているというギャップに関心をもった。どうなるか「わかる」ように感じる提案である一方で、その私たちの想像をインドネシアという土地の力がひっくり返すような顛末も起こりうる気がした。形がわかりやすいからこそ、むしろ変化が可視化され、そしてその変化に平井さん自身がひらいていることに期待させられた。
最後に、篠田ゆきさんを選んだ。正直に言えば、最初私は前述した「わからない」のベクトルに振り切った印象を篠田さんのプロポーザルから受けた。インドネシア滞在でのプランに「棒をふる」と書いてあって、「わかる」というのはわかったふりだろう。ただ、その「わからなさ」に可能性や不明というだけでなく、何か独特な質感のようなものを感じていたのも事実である。他のお二人と違って、インドネシアのASPと日本のhaziのどちらでも活動を希望しており、本アワードのテーマである「三点観測」を体現する2ヶ所での滞在をとおして、この「わからなさ」が何かに変わる可能性があるとしたら、それは率直にみてみたいと感じた。
レジデンスにしてもアワードにしても、作家活動の一定を占めるこうした形式に「選ぶ・選ばれる」や「滞在する・得る」といった力とその一方向性が孕んでいることについて、この選考のなかで議論が生まれ、私自身も再考する機会となった。こうした既存の形式が支える芸術実践者をとりまく環境に対して、オルタナティブが必要だというのは多くの当事者の実感ではないだろうか。そのための一つの手立てとなるのが、一方向的な力がはたらく形式を解体し、双方向性や相互作用といった対等なバランスで成り立つ場へとアップデートすることなのだろう。そして、それもまた存在し得なかった共同体への私たちの希求によって実現する。きっと本アワードもこうした希求から生まれた一つであり、ならばやはり「アワードではないアワード(?)」としてその良き一例となっていくことを願い、今後へのエールをおくりたい。
改めて選出された三名の方々、おめでとうございます。またお三方を含む応募いただいたみなさんに深く感謝いたします。ありがとうございました。
違う見方で
寺田健人 (R.E.Award 選考人)
選考の会議を終えてからいつ寝たのかわからないのですが、気づいたら泥のように寝ていました。アワードの審査員を務めるのが初めての経験だったから、単純に必要以上に気疲れをしたのかもしれないと思っていたのですが、今回のアワードの審査の中で得られたものがこの疲れを生み出している気がしました。
私の考えでは、選考作業は応募者の提出資料を熟読し、点数をつけてより優れたものを選び、他の選考人の方々と調整を行うことを考えていました。しかし、その作業だけではきっと17組の応募資料に対して6時間はかからないはずです。今回の選考の中では、一人の応募者の書類を皆で読み合わせた後、その長さに違いはありましたが話し合いが毎回生じました。これは後から考えてみたらそうだったなというようなことですが、厳格な採点基準というものがなく話し合いを通していく中で今回の選考人の間で価値基準が生まれたように思いました。それはパッと生まれるという感じではなく動的なものとして徐々に形成されていったという感じです。
その形成されていく価値基準は、ASPの横内さん、haziの大野さん、選考人の北澤さんと私の考えや発言でも違う形になっていきましたが、同時に応募者の資料によっても変化していったように思います。北澤さんが何度か「こちらが試されているかのようだ」というようなことをおっしゃっていたのですが、本当に選考人として今回参加している私たちが、応募してくださった同世代の作家に見られている、むしろこちらが評価されているような感覚を覚えました。
だからこそ適当なことは言えなかったし、いつもなら気軽に出せるような言葉が詰まってしまう。でも、自分の考えはその場で共有しないと選考人としてここにいる意味がないなどということが頭の中でぐるぐるとして、これまで経験したことのないものの見方で選考に臨みました。
さて、今回の選考の中で私が重要だと思っていたのは「いかに一方方向にならないか」という点です。私事ですが、最近の関心ごととして歴史がどのように作られているのかを考えています。「歴史上の事実」や「重大な(とされている)事実」で構成されるいわゆる大文字の歴史だけではなく、マイノリティに関する研究の中ではオーラル・ヒストリーなどで歴史家に拾われなかった言葉を集めていきます。それは、拾ってくれと歴史家に懇願するのではなく自らが語り手となるような態度です。希望的な側面もありますが、そのなかでは歴史家と歴史家に記述される人々の間にボーダーが曖昧になり、歴史的記述が一人の著作物ではなく幾人もの思想や言葉で紡がれた塊になります。
これはレジデンスの中でも活きる考えではないでしょうか。レジデンスは、作家が訪れた場所に滞在、リサーチをすることで、作家の思考に変化が生じ、新しい見方で世界へ眼差しを向けられるようになることがメリットの一つだと考えています。どれだけの変化を生み出せるか、というのは実際に行ってみてからじゃないとわからないですが、もし表現者が滞在で知り合った方々の間を作家/鑑賞者という一方方向の線引きではなく、緩やかに双方向の関係を結んでいくことができるとより良い経験になる気がします。今回選ばせていただいた3名の方が、まず安全にレジデンスに向かわれること。そして、どんな形であれ何らかの変化が生まれていくことを願っています。また、応募いただいた皆さまのおかげで様々な思考をすることができました。本当にありがとうございます。
以下、選出した3名へのコメントです。
田上碧さん:
これまでの制作の中で熱心に取り組まれている「詩」と「声」を使ったワークショップ。その土地の言語で「見て呼ぶ」他者と共有する今回のプランは、参加者に技術的なことを課さず、作家と同じような立場で参加できるという点が素敵です。言葉を使用しながら異文化の言葉の壁を越えるような...平井さんと共通する点ですが、「そこに存在し得なかった共同体」を、作品を通して作り出せるものだと思います。
平井亮汰さん:
ジョグジャカルタで参加者を募り陶器を作り、その陶器でお茶会を開くワークショップ。おもてなしやお茶会がどこまで通用するのか、現在想定しているものから現地に行った際にどれだけのギャップが生まれるのかが重要な点になる気がしました。日本的なものではない、お茶を飲む会がそこに生まれることを期待してしまいます。
篠田ゆきさん:
いくつかの予め決めた行動を滞在先で行うパフォーマンスだと捉えました。今回、ASPとhaziに滞在されるということで同じ行動を別の場所で行うとどのような変化があるのか。行動そのものにも変化があるかもしれない。正直どんなことになるのか未知なのですが、「わからなさ」を体現することが今回の篠田さんの滞在において重要な気がしています。